Original title: Underground
English title: Underground
Japanese title:
Underground アンダーグラウンド

Duration: 83min.
Aspect Ratio: 1.66 (European Vista)
Color: Color
Format: 4K
Sound: 5.1
Year: 2024
Country: JAPAN

Cast: Nao Yoshigai  Mitsuo Matsunaga Mikie Nishihara Eiga Matsuo Hayato Nagasaki

Technical Direction, Sound, DI Colorist: Hayato Nagasaki

Director of Photography: Takano Yoshiko
Co-director of Photography: Kaori Oda
Lighting: Lisa Hiraya Yusuke Shiratori

Assistant of Direction & Filming: Yuto Torii
Assistant of Filming: Hiroyuki Miura

Projection Device Design: Takuro Iwata  Riko Hirato Hiroki Yamada

Production Coordination (Sapporo): Saeko Oyama
Production Coordination (Okinawa): Eriko Oda

Researcher: Saeko Oyama Eriko Oda Yuto Torii

Music: Miyu Hosoi

Sound Mix & Sound Design: Iwao Yamazaki

Title & Graphic Design:  Yurie Hata

Production: trixta
Post Production, DCP manegement: Bart.lab
Film: KODAK
Equipment Service: Sanwa Cine Equipment Rental Co., Ltd. 
Lab.: Osaka Production Center, IMAGICA Lab.
Sound Mix Studio: atelier himawari

Co-Production: Ciné Nouveau Eurospace NAGOYAKINEMA NEU  Sapporo Cultural Arts Community Center Toyonaka Performing Arts Center

Supported by: Agency for Cultural Affairs of Japan Tokyo FILMEX Next Masters Support Program

Japanese Distributer: Eurospace sleepin films

Producer Ryohei Tsutsui  Eijun Sugihara

Directed, Story and Edited by Kaori Oda


World premiere at Tokyo Film Festival 2024 / Nippon Cinema Now

International Premiere at Berlinale 2025 / Forum

Festivals : Berwick Film & Media Arts Festival 2025, Beijing International Film Festival 2025, Prismatic Ground 2025, IndieLisboa 2025, FICUNAM 2025, Pesaro Film Festival 2025, Festival ECRÃ 2025, What the Doc! 2025, DMZ International Documentary Film Festival 2025,
Camera Lucisa 2025, Lima Alterna International Film Festival 2025, Muestra Internacional Documental de Bogotá 2025

感覚で積み上げた生の世界

-『アンダーグラウンド』批評

パク・イビン


 明確な正体は掴めなくとも、感覚だけで心が開かれる瞬間がある。『アンダーグラウンド』の冒頭シーンはまさにそのような体験をもたらした。低く深い声が生み出す振動が身体に伝わり、まばゆい光に包まれた地下の世界が目の前に広がる。この音がどこから来るのか、この場所がどこなのかは明示されないが、その曖味さこそが観客の感覚を解き放つ鍵となっていた。現代において、「観る」「聴く」という基本的な感覚さえ、時に過剰な情報に疲弊し、鈍化している。しかし本作は、観客に対して「私は今、確かに見ていて、聴いている」という原初的な知覚の感覚を蘇らせる。音は聴覚を刺激し、映像は 覚を呼び覚ます。そして上映中、眠っていた感覚が少しずつ目を覚ますのを実感する。その現象がなぜ起こるのか、私はしばらく思索を重ねた。


 印象的な冒頭を経て、やがて「影」と呼ばれる存在が登場する。この影は、女性の姿をしているようにも見え、同時に文字通りの「影」としての性質も持っている。注目すべきは、この影がどのように世界を感知しているかという点である。彼女は自らの身体の動きを通して、「現前しつつ不在でもある存在」に触れようとする。では、「現前しつつ不在でもある存在」とは何だろうか。それは、おそらく生と死の境界が明確に分けられないこの世界に立つすべての存在を指すのだろう。あるいは、実体は見えなくとも、痕跡として永続的に場に留まる存在とも言える。 


 影は、それらの存在に向かって、自らの手がどこまで触れてよいのかを慎重に測りながら、そっと手を差し伸べる。その手は、木に文字を刻み、草花の葉に触れ、仏像の顔をなぞり、珊瑚のかけらで微かな音を鳴らす。この繊細な手の動きに注意を向けていくと、次第に時間と空間の境界が曖昧になっていくことに気づかされる。たとえば、沖縄戦の悲劇が繰り広げられた洞の場面では、語り部によって集められた遺骨に触れる手が現れる。はじめは画面の端に影として登場していた手が、やがて中心へと移動し、現実の手として明確に姿を現す。その慎重な動きの中で、異なる時間が繋がれている感覚が浮かび上がってくる。魔術的かつ神秘的な存在であった影は、過去に属するもののように見えていたが、やがて現れた具体的な「手」によって、ここ=現在に到達していることを示しているのである。


 『アンダーグラウンド』が構築する世界において、曖昧な時間性は、すなわち「つながり得る」という可能性へと帰着する。この可能性が、私を他者への完全な理解や共感へと導くわけではない。しかし、地下通路に差し込む光の中を進む人物のように、ゆっくりと前へ進むことを促す。それは、一歩一歩を踏み出しながら、「私たち」へと近づいていく可能性を静かに提示しているのだ。もし私たちがつながっているとすれば、影自身も、影を見つめる観客も、「現前しつつ不在である存在」であったのかもしれない。


 一方で、影が自らの手を用いているという事実は、観客がその触感を直接感じることができないという限界から、新たな鑑賞体験を生み出している。影が大木に文字をなぞるとき、私たちはその文字を覚的に認識し、音として聴くことはできるが、指先に触れる樹皮の質感までは感じ取ることができない。仏像の厭刻に手が触れる場面でも同様であり、浮影の立体感は伝わってこない。それは、観客がスクリーンの中の影そのものになることはできない、という構造的制限によるものである。観客は、あくまで「見る」ことと「聴く」ことによって、部分的にしか関与できない。


 だが、能動的に「見る」「聴く」という行為は、この断絶の感覚から始まる。私はあなた(影)になることはできない。だが、あなたが感じているかもしれない感覚を想像したいと思う。より開かれた感覚で、この旅路に同行したいと願うからである。たとえば、「私」と「私たち」という文字を書くときに聞こえる微かな音に意識を集中したり、仏像のレリーフに差し込む一瞬の光を見逃さないようにしたり、植物の葉にそっと触れるその動きと線を、息を潜めて見つめたりする。観ること、聴くことから、触れることを想像してみる。私からあなたへ、そして私たちへ。『アンダーグラウンド』が導くのは、まさにこのような、美しく不思議な感覚の変換体験なのである。


 長い旅路の果てに、映画館にたどり着いた影は、スクリーンを通して廃墟となった村を目撃する。スクリーンを凝視する影の表情を見たとき、私は影と自分との関係について考えさせられた。影と私は、それぞれ異なる物語を持つ個人であると同時に、観客という集合的な存在にもなり得る。『アンダーグラウンド』の「影」を想うとき、彼女は非常に遠く離れた存在のようにも映る。しかし、例えば食事のために静かに料理をする誰かとして捉えた瞬間、彼女は私たちに寄り添う身近な存在として感じられるようになる。訪れたことのない洞産や寺院を巡る旅の途中で、自身の姿を見出せるのは、カメラが日常の風景を粘り強く見つめ続けているからに他ならない。一見して特別に映らない日常の営みを絶えず見守る創作者の眼差しには、知らず知らずのうちに信頼を抱かされる。


 一方、廃墟となった村は荒涼としていて寂しさが漂っている。焼け焦げた木々、痩せた大地、そしてよどんだ水が目に入る。聞こえていた列車の音が止むと、人影のない村はまるで永遠に時が止まってしまったかのように感じられる。だが、この村は「死んでいる」と断言させる隙を与えない。明るい光の中を影が悠々と動き、水辺で動物の骨を見つけたその瞬間一一私は、死を通して生を、生を通して死を見たような感覚に包まれた。頭に動物の骨を乗せて走る最後の瞬間でさえ、私は「生きていること」の新たな可化と向き合っていることを感じた。


 こうした直感をすべて言葉で説明することができるのだろうか。はっきりしているのは、『アンダーグラウンド』という物語の中に、今も息づく者たちのさまざまな姿が込められているということである。この物語には、地下から地上へと、その境界を自由に行き来しながら、丁寧に観察する眼差しがある。そして何よりも大切なのは、生と死、日常と非日常という二つのをどちらも肯定しながら生きることを促す心があるという点である。